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お久しぶりです

ずいぶん久しぶりの投稿となってしまいました…
思っていたよりも仕事が忙しくなり、全く身動きが取れなくなってしまったのです。
(ありがたいことですが)

一つ、とても興味深い文章を見つけましたので、個人的なメモを兼ね、シェアしたいと思います。

「トマス・アクィナス 理性と神秘」山本芳久著 岩波新書 より引用

アリストテレスが述べているように、人間精神は、最初は、「何も書かれていない書字版(tabula rasa)」のようなものである。だが、知性と感覚-視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚-という認識能力を兼ね備えていることによって、人間は、自らの精神を認識を通じて次第に豊かなものとしていくことができる。(略)
そのことは、認識能力を有さない他のものと比較してみると分かりやすい。たとえば、石には「経験」を積むということはない。別の言い方をすれば、石には「世界」が開かれてくるということはない。(略)
人間の場合には、それ(五感などの感覚的世界の経験)だけではない。「知性」によって「すべての可知的な形相を受容する」-宇宙万物の在り方を知的に認識する-ことができる。これが「魂はある意味においてすべてのものである」というアリストテレスの言葉の意味するところのものだ。
それに対して、「すべてを観たまう者(神)を観る者、その者の眼に入らないものがあろうか?」というグレゴリウスの言葉は、天国において顔と顔を合わせて神を直視している至福者たちの在り方を捉えたものである。(略)
愛に満ちた魅力的で熱い語り口ではあるが哲学的な基礎づけを伴っていないグレゴリウスの言葉と、冷徹に人間精神の可能性を哲学的に分析しているアリストテレスの言葉が絶妙な仕方で結び合わされることによって、トマスは、熱烈な宗教性と冷徹な哲学的認識とが相互浸透する魅力的な世界を読者に開示することに成功しているのである。

これは、中世において最大の神学者であり哲学者でもあったトマスの文章を解説した箇所ですが、グレゴリウスの(キリスト教徒にとっては)耳に心地よい(だが、宗教性に傾いており、具体的な肉付けがされていない)言葉に対し、アリストテレスを引用することにより、つまりはこういうことなのですよ、と読者に開示しただけでなく、更にグレゴリウスの言葉を熱狂的で感覚的なものから更に高次のものへと引き上げることに成功しています。

言葉というものはとても難しく、その表層の部分から感じ・考え、喜んだり悲しんだり熱狂したりということもあろうかと思いますが、やはり分析をするということは面倒がらずにするべきだなぁと改めて思いました。

なぜなら、その言葉…概念…は、誰のものでもなく、放たれた瞬間から公となるのだから、様々な視点より議論を重ね、その言葉自体をより豊かにしていくことは我々にとっても有益であると思うからです。

別の興味から手に取った本でしたが、山本芳久先生の解説から言葉(概念)についてのトマス・アクィナスのまさに神業のような偉業に舌を巻きつつ、身近なことであれ、それらを掘り下げていく鍛錬を積もうと改めて考えさせられました。


by icecream07 | 2018-02-06 08:41 | 本など